政治学史

政治学史は政治学の歴史を指し示す用語であり、また政治学の理論の変遷、学説の歴史及びその歴史的背景を対象とする、政治学の一分野です。政治学の諸分野でも特に政治哲学・政治思想の歴史を扱う場合は、政治思想史とも呼ばれます。

近代伝統的政治学

近代的な政治学理論はドイツにおいて国家学という形で発達し、そこでは政治社会は国家として捉えられた。19世紀のイギリス・アメリカでは、功利主義・フランス実証主義・国家学の影響を受けて多元的国家論が唱えられ、国家と社会を区別し、両者を包含する形で政治社会を捉えようとする思潮がおこった。

◯国家学と新カント学派
国家学は、主権概念と結びついた近世自然法思想の影響のもとに、国家有機体説[10]とドイツ観念論国家主義的な傾向を受けて成立した。また国家学においてはヘーゲルに基づいて社会の道徳的価値は国家に優越性が認められていた。19世紀末ドイツでは、新カント学派が登場し流行した。新カント学派は自然を対象とする自然科学と人間を対象とする人文諸科学はその方法論においても区別されるべきと述べていた。この考え方によれば、人文諸科学は対象領域において重複しているが、それぞれ独自の方法論を持っているために、それぞれの学問分野が個別に成立しうるものであるとされた。この考えは、のちに国家学から政治学を独立させる根拠となるものでもあるが、この時代の実際の研究者の間では政治学を国家学の一分野とする見方が一般的であった。
国家学はジャン・ボダンの主権論やアルトジウスの自然法理論を先駆とし、ヴォルフによって基礎が整えられた。続くブルンチュリは『一般国法学および政治学の歴史』を著し、国家学を体系づけるとともに、学説史と結びつけた。19世紀ドイツを代表する国家学者であるイェリネックは、国家学は政治制度を研究する「国家社会学」と憲法行政法国際法などを研究する「国法学」に分け、政治学は国家の目的についての規範的研究と位置づけていた。彼は新カント学派に影響されて、国家を法的組織(形式)と社会形象(当為)の二面性を持つものとして把握すべきであると唱え、国家の形態は多様であり、類型的に把握すべきだと論じた。これに対しケルゼンは、当為と形式は関連性がない別個の領域で、国家は法秩序として一元的に捉えるべきであるといい、形式を重視した純粋法学を提唱した。彼はまた価値絶対主義が政治的絶対主義を生み、価値相対主義は政治的相対主義=寛容を生むといい、民主主義は価値相対主義に基づくと主張した。ケルゼンは、道徳と法はその存在領域が異なるためにその対立は存在せず、政治的な義務としての法規範が、倫理的な義務としての道徳規範と対立することはないと述べた。シュミットは、政治の本質は決断であると述べ、国家における決断の主体として主権を定義し、主権国家を擁護した。現実的には優柔不断な政権よりはナチスの独裁の方がよいとして、ナチスとその拡大政策の支持につながった。彼は『ヴァイマルジュネーヴヴェルサイユとの対決』を著し、ヴァイマル体制を批判していたので、それもナチスの目的と合致するものであった。ヘラーは国家学を政治学の一分野とし、従来国家学に政治学が含まれてきたことを批判した。また、「ヴァイマル体制は敗戦の結果強要された政治体制で、ドイツの国民性に適合していない」とする見方があったのに対して、ワイマール体制はドイツの近代政治思想の正統を継承するものであると擁護した。しかし、新たに台頭したナチスヴァイマル体制の打破を目的としていたので、ヴァイマル体制を擁護したヘラーは亡命を余儀なくされた。

◯多元的国家論
国家学が政治社会を国家とほぼ同義に見ていたのに対して、アメリカやイギリスで興った多元的国家論は、国家の役割をより限定的に見るものであった。コールは、社会を全体性に基づく柔軟なコミュニティと、その内部に存在する目的性に基づくアソシエイションに分類すべきと述べた。コミュニティは世界、国民、村落といった柔軟かつ多様な社会で、その内部に会社、結社、組織などといった目的性を持った社会としてのアソシエイションが存在しているとした。これによれば、政治社会は国家学のように国家の利害に基づいて成立するのではなく、多様なアソシエイションの利害の総合の上に成り立つものであるとされた。つまり政治学の対象を国家だけでなく、社会のさまざまな集団に向けるものであった。ラスキはコールの論に基づいて、国家はアソシエイションの1つに過ぎないのであるから道徳的優越性を持つものではないとして、政治学が国家中心に語られるのを批判した。

マルクス主義政治学
一方で、経済的な研究から階級主義的な歴史観を提唱したマルクスは、社会を階級に基づいて把握することを提唱し、社会・国家の政治闘争を階級間の利害対立に還元する見方を示した。

◯近代社会政策思想(ドイツ自由貿易学派と講壇社会主義)
19世紀に入ると社会政策も本格的に学問の対象とされ、主に経済学の影響を受けて社会政策思想が成立した。まず1858年にイギリスの功利主義自由貿易主義に影響されて、ドイツの自由主義者が「ドイツ経済者会議」(Kongress deutscher Volkswirte)を結成、それを根拠として「ドイツ・マンチェスター学派」(das deutsche Manchestertum)が形成された。彼らは貿易自由政策を重視するよう主張する一派で「ドイツ自由貿易学派」とも呼ばれ、その中心人物はプリンス・スミスである。当時、ドイツを中心とする中央ヨーロッパ諸国はドイツ関税同盟を形成していたが、この時期北東ドイツの農業地帯及び北海沿岸の港湾都市は経済上イギリスとの結びつきが強く、彼らはその経済的利害を代表していた。具体的には、ドイツ関税同盟に代表される保護関税政策を拡大することに反対し、むしろ不必要な高率の保護関税を廃止すべしと論じた。一方で、ドイツ国内の急速な工業化・先進化はとくに労働問題を先鋭化させ、労使関係の調整が必要とされていることは明らかであった[11]。講壇社会主義は主にアカデミックな立場から、国民経済を、その崩壊を招きかねない労働問題・社会問題の激化から救出することを第一の目的としていた。この学派は「社会政策学会」という機関を持ち、代表する論者はシュモラー及びブレンターノ、ワグナーであった。彼らはまず、経済的な自由主義の道徳的価値が絶対であるとする自由貿易学派の主張に対し、社会政策に関する学問は科学的でなければならず、したがってそれはあらゆる道徳的価値を排した、客観的な学問にされるべきだとして批判した。彼らは労働者を保護すべきだと論じたが、それは倫理的な理由によるのではなく、産業社会の進展に必要不可欠な負担であると論じた。したがって講壇社会主義は労働条件の改善などの社会改良を主張しながらも、一方で労働運動にはむしろ否定的であった[12]。

 

参照元ウィキペディア政治学史