政治学史

政治学史は政治学の歴史を指し示す用語であり、また政治学の理論の変遷、学説の歴史及びその歴史的背景を対象とする、政治学の一分野です。政治学の諸分野でも特に政治哲学・政治思想の歴史を扱う場合は、政治思想史とも呼ばれます。

現代政治学の展開 - 脱行動科学の動き

かくして政治学における主流派の地位を占めるに至った行動科学政治学だが、1960年代には様々な角度から批判されるようになる。さらに行動科学政治学側でも、それらの批判をうけて脱行動科学の方向を模索し始めた。
既に1940年代・50年代から行動科学政治学と一線を画す研究は行われていた。その代表的なものの一つは、後述する合理的選択理論である。さらにモーゲンソーは社会科学のディシプリンとしての国際政治学の確立を目指す一方で、行動科学の手法とは距離を置いた。『科学的人間 対 権力政治』(Scientific Man versus Power Politics, 1946)において行動科学的手法がアクター間関係にはたらくパワーの要素を見落としがちであることを指摘し、政治学はそうしたパワーの要素を捉えるべきだと論じた。ラズウェルとカプランの共著『経済と社会』(Power and Society, 1950)の書評では同じような論点から、哲学的・規範的視点の軽視を批判した。しかし行動科学政治学に対するより端的で鋭い批判は、それとは異なる観点から生じた。シュトラウスを筆頭とするシュトラウス派による批判と、いわゆるニュー・レフトからの批判である。
行動科学政治学の基礎となるのは、価値と事実は峻別できるという考え方である。その上で客観的な事実だけを政治現象として取り出し、帰納法による実証を通じて政治現象を科学的に把握・説明できるというのが行動科学政治学の基本的立場である。この思想は古くはコントの実証主義に遡ることができ、新しくはヴェーバーが強く主張したものであった。シュトラウスは、こうした行動科学政治学の背景思想に真っ向から異を唱え、政治哲学の復権を強く主張した。
いわゆるニュー・レフトによる批判はシュトラウスのそれとは些か異なる趣を持つ。すなわち、彼らの批判は1960年代後半の社会情勢に起因する。ニュー・レフトははっきりと体制に対する不満を表明し、さかんに社会運動を繰り広げた。さらにヴェトナム戦争は人々に体制への疑問を喚起することとなった。その結果彼らの影響力は政治学にも及び、体制の変動もしくは「よりよい社会」の建設のための政治学を提起した。彼らにとって価値中立性を謳う行動科学政治学は、現実政治の実証的分析の名の下に現体制を擁護する「死んだ政治学」にほかならなかった。実はこの種の論争は、既に1950年代の政治学において見出すことが出来る。社会学者ミルズは、1956年に『パワー・エリート』(The Power Elite)を著した。この中でミルズは有名な政・軍・産複合体の概念を打ち出し、アメリカの政治における決定はこれら一部のエリートに握られていると論じた。これは体制批判の含意をもつものであった。対して行動科学政治学を代表する研究者であるダールは、『統治するのはだれか――アメリカの一都市における民主主義と権力』(Who Governs?:Democracy and Power in the American City, 1961)において反論を繰り広げた。ダールはコネティカット州ニュー・ヘヴン市における実証研究を通じて、決定のシステムが多元主義的であることを示した。ミルズの影響の下アメリカ政治の多元性を疑うニュー・レフトにとってみれば、行動科学政治学の知見は欺瞞に満ちておりそれは単なる体制擁護のイデオロギーに過ぎなくなる。従って、ニュー・レフトの観点からすれば行動科学政治学は社会に対する有意性すなわち体制変動に貢献する要素を持たない。新しい政治学を求める者はこの点を強く批判し、新政治学コーカス(The Caucus for a New Political Science, CNPS)を立ち上げた。
こうした批判を受けて行動科学政治学側も「脱行動科学」を打ち出した。行動科学政治学の第一人者、イーストンが1969年に行ったアメリカ政治学会会長演説がその契機といわれている。この中でイーストンは有意性と行為をキーワードに「脱行動科学革命」を提唱した。これは行動科学が経験的保守主義イデオロギーを隠している、つまり体制擁護的であることを認めたものであった。さらに行動科学政治学が現実との接触を失っていること、政治学が「よりよい社会」の実現に資すべき事など、新しい政治学を求める一派の主張を一部取り入れたものでもある。一方でイーストンは従来の行動科学政治学の成果を否定したわけではない。彼は「脱行動科学革命」をむしろ行動科学政治学の拡張と捉えた。行動科学的手法を維持したまま、1960年代後半に見られたような社会的危機の克服に政治学が資することが出来ると考えたのだ[13]。
こうした脱行動科学の動きは、新しい政治学のあり方を提示するのに必ずしも成功しなかった。CNPSにつながる政治学者たちは、参加民主制[14]などの新しい思潮を生み出したが、新しい政治学の潮流を築き得なかった。これはイーストンの「脱行動科学革命」も同様である。行動科学政治学は政治過程論などの分野で有力な地位にとどまる一方、支配的な方法論ではなくなった。政治哲学の復権、合理的選択理論の台頭など政治学は方法論的な多様性と支配的パラダイムの不在という状況を迎えることになったのである。

 

参照元ウィキペディア政治学史