政治学史

政治学史は政治学の歴史を指し示す用語であり、また政治学の理論の変遷、学説の歴史及びその歴史的背景を対象とする、政治学の一分野です。政治学の諸分野でも特に政治哲学・政治思想の歴史を扱う場合は、政治思想史とも呼ばれます。

近世政治思想

◯イギリス功利主義とフランス実証主義
19世紀のフランスでは進歩史観に基づき、フランス実証主義が成立した。これは秩序・進歩・友愛によって人間知性が進化していると述べたコントを代表とする、社会を肯定的に見るものであった。一方イギリスでは、古典派経済学に影響されて功利主義思想が流行した。この思想の初期を代表するベンサムの「最大多数の最大幸福」という言葉に代表されるように、道徳的規範や法規範の根拠を幸福の追求に求めるもので、その根底にはアダム・スミスが論じたような予定調和的な経済観があった。続くミルはベンサムが幸福を物質的なものとして捉えていることを批判し、精神的な幸福としての道徳を政治の基礎とした。彼は『自由論』を著して言論の自由を訴えたが、その背景には人間の能力が本来的には調和的に発展するものであるという人間性に対する信頼があった。彼の『代議制統治論』は代議政体が最善の統治形態であることを主張するものであるが、同時に現実にさまざま存在する統治形態は環境的条件などにより相対的価値を持っているとし、ただ民主主義政体であればよいというわけではないと述べた。ミルは女性の解放には熱心で、婦人参政権運動などにも積極的に関わったが、反面労働者階級による「階級立法」を警戒し、労働者問題には消極的であった。イギリス功利主義もフランス実証主義も経済的自由主義自由貿易を主張するものであった。

 

参照元ウィキペディア政治学史

中世国家と政治理論

中世国家の特質としては、地域国家であることが挙げられる。中世国家を支配する国王のもとには国境も国土も国民も存在せず、その支配は契約関係に依拠するのであり、なおかつその契約関係は流動的であった。次に国王だけでなく領主も軍事力を持っており、ここでは、現代社会において国家の権力を強力ならしめている暴力の独占が行われていなかった。したがって、国王の公権力の性質と領主の私権力の性質は、暴力に関していえば本質的な区別は存在しなかった。さらに法についても、伝統や慣習が重んじられた。そこには「古き良き法」としての慣習と支配関係を規定する契約があるのみで、国王の権力もそれを改変することはできなかった。国王は契約によって支配したが、同時に契約に支配されていたのである[6][7]。最後に、中世社会における教会の絶対的な精神的支配を挙げることができる。教皇は、場合によっては国王以上の権威を持っていた。皇帝としてのドイツ国王も中世国家の上位に存在する理念上の帝国(インペリウム)の統治者とされたが、実質に乏しかった上、教皇の支配する教会のほうがより実質的にヨーロッパ世界を統合していた[8]。中世社会では、権力は世俗の国家・王権に、権威は教会に二元化されており、このことがのちのヨーロッパの政治社会を大きく規定した。

◯神学の優位
中世西ヨーロッパの政治社会は、その全体を覆う世俗の権力を持たなかったが、キリスト教共同体としては教会の精神的な支配のもとに統一されていた。このことは、人々の現実生活が宗教によって制約されることにつながった。人間の精神的営みとしての文学、絵画、音楽などの芸術・文化領域は教会に従い、学問も教義の権威に服することになった。学問においてまず優越されるのは神についての学問、神学であり、哲学をはじめとする諸科学は神学に従属した。

◯コモン・ロー
中世に成立し、近代政治原理に影響を与えたものとしては、イギリスにおいて成立したコモン・ローを挙げることができる。コモン・ロー(common law)とはイングランド王国の一般慣習法という意味で、11-12世紀ごろから地方ごとに存在していたゲルマン慣習法を統合して成立した。このコモン・ローは人為的に変更不可能とされ、13世紀には法曹院が成立し、裁判活動や法曹家の養成において支配的な役割を果たすようになり、コモン・ローは法曹院を通じて整理・体系化された。ここに君主の権力に対する「コモン・ローの優位」が確立され、コモン・ローは王権神授説に基づくステュアート朝絶対王政に対する有力な対抗理論となり、名誉革命後の権利の宣言・権利の章典により王権神授説は否定され、議会主権の原理に結びついた。裁判所はコモン・ローに基づくのみならず、議会の制定した法律にも従うべきことが規定され、「法の支配」が確立された。以後この思想は、イギリス法体系の基本原則となった。一方で、「コモン・ローの優位」の思想は独立前後のアメリカにも大きな影響を及ぼし、しかもここではむしろ議会の制定した法律に対する有力な対抗理論となった。それは議会の立法権に対する司法権の優位の主張に結びつき、1803年には違憲立法審査権の確立という形で成果となって現れた[9]。

 

参照元ウィキペディア政治学史

初期のキリスト教と政治理論

イエスの死が神の自己犠牲であり、その前提として人間の原罪を設定することによって成立したキリスト教は、政治社会に特徴的な関わりをもった。キリスト教の特徴としては、まず古典古代のギリシャ・ローマの人間観が基本的に能力の調和的発展を理想としていたのに対し、キリスト教の人間観は調和が失われ、分裂的であり、原罪を背負う矛盾に満ちた存在として捉えていたことである。人間はこのような堕落から自力では逃れようがないのであるが、ただ神の慈愛を受け入れ、それを信仰する生活に入れば罪から解放されるとされた。キリスト教においては現世は信仰ほど重要なものではなく、現世の政治は信仰とは基本的に無関係であると考えられた。しかしキリスト教の教会組織は「最終的手段」(ultima ratio)としての暴力装置を持たなかったのにも関わらず、一個の政治社会であった。教会は現実社会に対して強固な統制力を持っていたが、その根拠は決定的に思想・信仰にあった[5]。

◯原始教会(パウロ)
キリスト教民族宗教としてのユダヤ教の限界を超え、普遍宗教として成立するのに貢献したのがパウロであった。パウロは現世と信仰を区別し、ローマ皇帝などの権威は神によって存在しているとしながらも、その政治権力自体に価値があるわけではないとした。キリスト教徒がこれらの権威に服するのは良心という最高の価値に従うからであると述べた。

◯両剣論
ローマ帝国においてキリスト教が国教とされると、世俗の権力と教会の関係が徐々に大きな問題となった。これを説明する理論として両剣論(theory of two swords)が現れた。剣とは権威を意味し、5世紀末の教皇ゲラシウス1世が教義の問題で皇帝と対立したときに作り出された。この考えによれば、皇帝は物質的な剣(gladius materialis)を持つが、教皇は精神的な剣(gladius spiritualis)を持っており、ともに神から別々に下されたものであり対等である。この2つの権力は相補的な性質を持っており、皇帝は永遠の生命のために司教を必要とし、司教はこの世の秩序を維持するために皇帝の力を必要とすると述べた。ここに現実社会は皇帝の支配する世俗の帝国と教皇を頂点とする教会に二分されて把握され、それぞれ固有の法(ローマ法とカノン法)を持ち、それぞれ固有の行政組織・裁判権を持つと主張された。

◯教父哲学(アウグスティヌス)
中世の政治思想に大きく影響を与えたのが、アウグスティヌスとその著作『神の国』(413年-426年)である。この著作は、当時北方からのゲルマン民族の侵入によって危機を迎えていたローマ帝国で発生したキリスト教批判に反駁する内容である。彼は現実世界を「地の国」とし、その世界はいずれ崩壊するもので、永遠の「神の国」とは本質的には異なるとした。そのうえで「神の国」は「地の国」と重なり合って歴史を構成しているが、その地上に現れている「神の国」はキリスト教信者の共同体であって、しかも教会と同義ではないとしている。アウグスティヌスは教会も基本的には「地の国」の政治社会に過ぎないと述べるが、それを通じて「神の国」に入るという意味では教会のほかに救いはないとした。アウグスティヌスキケロの正義論を引用しつつ、キケロのいう正義は信仰なしには存在せず、現実のローマ帝国が没落していくのは正義を欠いているためだと結論づけた。

 

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