政治学史

政治学史は政治学の歴史を指し示す用語であり、また政治学の理論の変遷、学説の歴史及びその歴史的背景を対象とする、政治学の一分野です。政治学の諸分野でも特に政治哲学・政治思想の歴史を扱う場合は、政治思想史とも呼ばれます。

現代政治学の展開 - 制度の再発見:新制度論

1950年代以降主流となった政治学におけるアプローチは、行動科学政治学にせよ合理的選択理論にせよ、個々のアクターに焦点を当てるものであった。従って分析単位として政治制度が取り上げられることは少なく、本来アクターの行動の場となるべき制度は軽視されてきた。こうした政治学における制度の軽視という状況に警鐘を鳴らす研究、或いは従来の制度を軽視した方法論の限界を踏まえた研究が1980年前後から登場した。この風潮を一般に「新制度論」(新制度主義、新しい制度論、New Institutionalism)と言う。公式の制度にのみ焦点を当てた制度論とは異なり、新制度論においては非公式な制度、すなわち慣習や行動規範にまで射程が広げられる。
新制度論とは、19世紀から20世紀初頭にかけて主にアメリカで隆盛を極めた制度論(旧制度論)との対比を意識した言葉でもある。さらに新制度論は、制度の分析のみならずアクターと制度との関係、もしくは相互作用を捉えようとする傾向にある。これも、制度だけを取り出して研究対象とした旧制度論とは異なる点である。こうした制度を巡る新しい諸研究を新制度論として初めて体系付けて論じたのは、マーチとオルセンである[21]。
しかし本来新制度論とは、政治学の様々な方法論が独自に制度の分析に取り組んだ結果生じたものである。すなわち、最初から新制度論として一定の共通の方向付けがなされて纏まったものではなく、全く異なる別個の潮流・理論の集合体であると言える。そのことを踏まえたうえで新制度論を整理し論じたのがホールとテイラーである。ホールとテイラーによると新制度論は全く別々に生じた3つの潮流に分類できる。つまり合理的選択制度論、社会学的制度論、歴史的制度論の3つである[22]。
合理的選択制度論は、従来の合理的選択理論が制度に関する分析を開始したのを契機として生じた。従って経済学の方法論との親和性から、経済学的制度論と呼ばれることもある。合理的選択制度論にあって制度は、アクターの行動に課されるパターン化された制約と捉えられる。従って個人の選好、戦略的行動の帰結として制度は存在する。すなわち、ノーベル経済学賞を受賞し政治学・経済学の領域で新制度論に基づく研究業績を挙げたノースによれば、「制度とは、社会のゲームのルールであり、より公式に定義するならば、それは人間が自らの相互作用を成り立たせるために考案した(中略)人間が交流する上での誘因を構造づけるもの」[23]となる。言い換えれば多くの場合制度はゲームにおける均衡として捉えられる。このように個人の選好に基づく利益・効用最大化行動、及び戦略的行動の帰結という制度観を共通に持つ複数のモデル・理論の集成が合理的選択制度論である。従って後述する社会学的制度論ほど、統一された1つの学派という性格は強くない。
合理的選択制度論の1つの重要な潮流は、アロー以来の社会的選択理論を背景にアメリカ連邦議会研究の中から登場してきた。社会的選択理論の重要な知見の1つは、多数決の不安定性言い換えれば多数決による意思決定の困難さであった。つまり理論的には議会などで個々人の選好に基づき投票を行った場合には循環が生じ、最終的な意思決定ができなくなる[24]。このことは投票のパラドックス、或いはコンドルセパラドックスと呼ばれ古くから知られたことであった。しかし実際の議会はこのような循環などの意思決定上の問題から来る機能不全に陥ってはいない。その理由を探求したのがシェプスリ及びワインゲストによる一連の研究であった[25]。研究によると議会の中にはこのような循環を防ぎ、安定した決定すなわち均衡を誘導する制度的メカニズムが存在する。そうした制度的要因が働き、議会は循環などの意思決定上の困難に遭遇せず機能を果たすことが出来る。そうした制度的メカニズムの代表例は委員会制である[26]。このように制度とは構造に誘導された均衡(決定)を導くものであるとここでは考えられる。
合理的選択制度論のもう一つの潮流は、いわゆる取引コストの経済学を政治現象の分析に応用したものである。取引費用の経済学自体はコースの先駆的研究にまで遡れる古い概念である。取引費用が存在する場合、市場によっては効率的な価値配分が行われない。むしろ何らかの垂直的秩序(例:企業)に依存したほうが効率的であるとするのが取引費用の経済学の立場である。ところでこうした取引費用の中には情報のコストも含まれる。経済活動そして政治活動における様々な情報は非対称である。従ってこの場合にも垂直的構造に依存するのが効率的である。このような状況を分析するのにプリンシパル=エージェント・モデル[27](本人代理人論などと訳される)は有意性を持つ。例えば政治家には政策立案に関する情報コストがある。そこで専門知識を有する官僚をエージェントとして雇う。こうして政治家と官僚の間には垂直的秩序であるプリンシパル=エージェント関係が成立する。このようにプリンシパル=エージェントモデルは典型的に政治家(立法府)・官僚(執行府)関係を分析するのに用いられる。プリンシパル=エージェントモデルは1990年代以降日本政治の分析にも応用され[28]、最も良く知られる合理的選択制度論のモデルとなった。
一方で新制度論のもう一つの典型が社会学的制度論である。社会学的制度論は、アクターの行動や現実理解を意味づけるものとして制度を捉える。これはアクターの行動が制度に規定されることを強調する立場である。このことは、アクターの行動が制度に規定されることよりもむしろアクターが制度を生み出すことを重視する合理的選択制度論の制度観とは対比的である。社会学的制度論はその名が示すとおり社会学において発生し、後に政治学に応用された。社会学的制度論が政治学に導入される契機となったのが、マーチとオルセンの論文である[29]。ヴェーバー以来社会学にあって官僚組織を代表とする組織は、合理性を追求するものと考えられていた。この、組織とはある目的を効率的に追求するための構造という命題に対するアンチテーゼとしてアメリカで1950年代に登場したのが社会学における制度論、新しい組織理論であった[30]。この社会学的制度論の発展に寄与した社会学者としては、マイヤー、ディマジオ、パウエルらが挙げられる。彼らの主張は、制度の形態や手続きが最も効率的というわけではなく卓越した合理性を備えているわけではないということであった。そうした形態がとられたのは主に文化的なものや慣習のためであるというのが社会学的制度論の認識である。従って、社会学的制度論は結果的に文化や慣習がアクターを拘束することを重視することになる。すなわち、社会学的新制度論は一種の文化的アプローチである。
第三の新制度論として、歴史的制度論が挙げられる。歴史的制度論は歴史を重視することを共通項とする、かなり幅広いアプローチと看做すことも出来る。例えば、合理的選択理論に依拠する者が歴史制度分析を行う場合[31]にも歴史的制度論に基づく研究と分類されかねない。このことから、新たな分野として歴史的制度論を取り上げることを疑問視する意見もある[32]。しかし一般に歴史的制度論と言った場合、次のような立場をとるとされる。すなわち過去に採用された制度が現在の制度、或いは政治のあり方を規定しているとする立場である。このような立場に立つ研究としては、パットナムのイタリアにおける地方政府のパフォーマンスの差異に関する研究[33]が挙げられる。

 

参照元ウィキペディア政治学史

 

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現代政治学の展開 - 合理的選択理論

1950年代以降、行動科学政治学か主流となる一方で経済学の方法論を政治学に導入することを端緒として、これまでとはまったく異なるアプローチが登場した。それらを総称して合理的選択理論と呼ぶ。合理的選択理論に共通する特徴は、ミクロ経済学のいくつかの仮定を受け入れるということである。すなわち合理的選択理論において政治現象は、自己の利益・効用を最大化しようと行動する政治的アクターの相互作用の総体となる。これはアクターの合理性仮定ともいわれる。同時に合理的選択理論は個々のアクターの選択に焦点を当て、その選択の帰結として政治現象を説明する。つまり、方法論的個人主義に立脚した理論である。アクターの合理性仮定と方法論的個人主義は、程度の差はあれ合理的選択理論に共通する大前提である。このような前提に立ってマクロの政治過程をミクロの観点から分析する、或いはマクロの政治現象にミクロによる基礎付けを行う理論として発生した。このミクロ的分析視角を体系的に確立したというのは、合理的選択理論の斬新な点であった。また他の方法論的特徴としてはフォーマル・セオリーによる手法、すなわち演繹主義が挙げられる。合理的選択理論に立つ論者は理論やモデルを構築し、その正当性を検証するために実際の事例やデータを用いてきた。このことは、行動科学政治学の帰納的アプローチとは対照的である。こうした特徴から、合理的選択理論のモデルとしては数理モデルがよく用いられる。戦略的状況の下でのアクターの意思決定を分析するゲーム理論を政治学に導入したのも、合理的選択理論の系譜である。
他方経済学においては非市場的意思決定の研究が既に行われていた。第二次世界大戦後発達した公共経済学の分野がそれに当たる。他の経済学における研究は後に合理的選択理論のうちでも特に社会的選択理論と呼ばれる分野に結実した。いわゆる集合的意思決定に関する研究であり、その1つの記念碑的研究の成果がアローの一般可能性定理である。アローの研究は『社会的選択と個人的評価』(Social Choice and Individual Values,1951)に纏められている。
政治学における合理的選択理論の先駆となる研究は、ブラックによりなされた。ブラックは社会的選択理論の研究を行う一方、選挙における有権者や政党を研究対象とし中位投票者理論を構築した。しかし、合理的選択理論を政治学において確立する契機となったといえるのはダウンズとその著書『民主主義の経済理論』[15](1957)である。ダウンズはブラックらの議論を空間モデル(一次元空間モデル)などを駆使して精緻化し、体系付けた。これ以降、有権者・政治家・政党・議会(立法府)・行政府・官僚等の政治的アクターの分析が本格化した。
ブキャナンとタロックによる『公共選択の理論-合意の経済論理』[16](1962)以降の研究は、これまでのケインズ経済学、及びケインズの理論に立脚する経済政策の正当性に疑問を投げかけるものであった。すなわち市場の失敗の解決や公共財の供給のためには政府の介入が必要とされ、実際に政府の介入により効率的な資源分配、公共財の供給が行われるという見解が従来の主流であった。また不景気の際に政府が市場への介入、具体的には政府支出を増大させる財政政策をとることが解決策になるという主張が一般的であった。ブキャナンらは財政学の視点を交えて政治過程における多様なアクターの相互作用を分析した結果、政府による介入がかえって非効率につながり効果が得られない場合があることを明らかにした[17]。
この他の合理的選択理論の知見としては、集合行為論が挙げられる。オルソンは著書『集合行為論』[18](1965)でアクターの合理性を仮定した場合、どのように集団が形成されるかを明らかにした。これ以降、集合行為や公共財の供給におけるフリーライディングなどの問題が政治学の場で正面から扱われるようになった。またライカーは『政治的連立の理論』[19](1962)でゲーム理論を政治学の分析に応用した先駆者となった。このようにライカーはゲーム理論をはじめとしてフォーマル・セオリー[20]を使い合理的選択理論を精緻化、ほぼ完成に導いた。ライカーは合理的選択理論をベースとした実証政治理論(Positive Political Theory)の創始者とも看做されている。
現在では合理的選択理論は公式・非公式の様々な制度の分析、及び制度とアクターの相互作用の分析に取り組んでいる。これがいわゆる合理的選択新制度論(合理的選択制度論)である。

 

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現代政治学の展開 - 脱行動科学の動き

かくして政治学における主流派の地位を占めるに至った行動科学政治学だが、1960年代には様々な角度から批判されるようになる。さらに行動科学政治学側でも、それらの批判をうけて脱行動科学の方向を模索し始めた。
既に1940年代・50年代から行動科学政治学と一線を画す研究は行われていた。その代表的なものの一つは、後述する合理的選択理論である。さらにモーゲンソーは社会科学のディシプリンとしての国際政治学の確立を目指す一方で、行動科学の手法とは距離を置いた。『科学的人間 対 権力政治』(Scientific Man versus Power Politics, 1946)において行動科学的手法がアクター間関係にはたらくパワーの要素を見落としがちであることを指摘し、政治学はそうしたパワーの要素を捉えるべきだと論じた。ラズウェルとカプランの共著『経済と社会』(Power and Society, 1950)の書評では同じような論点から、哲学的・規範的視点の軽視を批判した。しかし行動科学政治学に対するより端的で鋭い批判は、それとは異なる観点から生じた。シュトラウスを筆頭とするシュトラウス派による批判と、いわゆるニュー・レフトからの批判である。
行動科学政治学の基礎となるのは、価値と事実は峻別できるという考え方である。その上で客観的な事実だけを政治現象として取り出し、帰納法による実証を通じて政治現象を科学的に把握・説明できるというのが行動科学政治学の基本的立場である。この思想は古くはコントの実証主義に遡ることができ、新しくはヴェーバーが強く主張したものであった。シュトラウスは、こうした行動科学政治学の背景思想に真っ向から異を唱え、政治哲学の復権を強く主張した。
いわゆるニュー・レフトによる批判はシュトラウスのそれとは些か異なる趣を持つ。すなわち、彼らの批判は1960年代後半の社会情勢に起因する。ニュー・レフトははっきりと体制に対する不満を表明し、さかんに社会運動を繰り広げた。さらにヴェトナム戦争は人々に体制への疑問を喚起することとなった。その結果彼らの影響力は政治学にも及び、体制の変動もしくは「よりよい社会」の建設のための政治学を提起した。彼らにとって価値中立性を謳う行動科学政治学は、現実政治の実証的分析の名の下に現体制を擁護する「死んだ政治学」にほかならなかった。実はこの種の論争は、既に1950年代の政治学において見出すことが出来る。社会学者ミルズは、1956年に『パワー・エリート』(The Power Elite)を著した。この中でミルズは有名な政・軍・産複合体の概念を打ち出し、アメリカの政治における決定はこれら一部のエリートに握られていると論じた。これは体制批判の含意をもつものであった。対して行動科学政治学を代表する研究者であるダールは、『統治するのはだれか――アメリカの一都市における民主主義と権力』(Who Governs?:Democracy and Power in the American City, 1961)において反論を繰り広げた。ダールはコネティカット州ニュー・ヘヴン市における実証研究を通じて、決定のシステムが多元主義的であることを示した。ミルズの影響の下アメリカ政治の多元性を疑うニュー・レフトにとってみれば、行動科学政治学の知見は欺瞞に満ちておりそれは単なる体制擁護のイデオロギーに過ぎなくなる。従って、ニュー・レフトの観点からすれば行動科学政治学は社会に対する有意性すなわち体制変動に貢献する要素を持たない。新しい政治学を求める者はこの点を強く批判し、新政治学コーカス(The Caucus for a New Political Science, CNPS)を立ち上げた。
こうした批判を受けて行動科学政治学側も「脱行動科学」を打ち出した。行動科学政治学の第一人者、イーストンが1969年に行ったアメリカ政治学会会長演説がその契機といわれている。この中でイーストンは有意性と行為をキーワードに「脱行動科学革命」を提唱した。これは行動科学が経験的保守主義イデオロギーを隠している、つまり体制擁護的であることを認めたものであった。さらに行動科学政治学が現実との接触を失っていること、政治学が「よりよい社会」の実現に資すべき事など、新しい政治学を求める一派の主張を一部取り入れたものでもある。一方でイーストンは従来の行動科学政治学の成果を否定したわけではない。彼は「脱行動科学革命」をむしろ行動科学政治学の拡張と捉えた。行動科学的手法を維持したまま、1960年代後半に見られたような社会的危機の克服に政治学が資することが出来ると考えたのだ[13]。
こうした脱行動科学の動きは、新しい政治学のあり方を提示するのに必ずしも成功しなかった。CNPSにつながる政治学者たちは、参加民主制[14]などの新しい思潮を生み出したが、新しい政治学の潮流を築き得なかった。これはイーストンの「脱行動科学革命」も同様である。行動科学政治学は政治過程論などの分野で有力な地位にとどまる一方、支配的な方法論ではなくなった。政治哲学の復権、合理的選択理論の台頭など政治学は方法論的な多様性と支配的パラダイムの不在という状況を迎えることになったのである。

 

参照元ウィキペディア政治学史